殺法活法 高野圭介 |
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殺法と活法 | 最近、接骨院で 古代柔術に「殺法と活法」というのがあるのを知った。 殺法と活法 戦国時代の武道の書物の中にも「殺法、活法」があり、 これをみると 殺法は武技そのもので柔術の場合に例をとると 当身技、投技、絞技、関節技、固技はすべ て殺法に属する。 活法は傷付いた方の治療法、手当であり 骨折 脱臼 打撲 捻挫等の外傷を治すもので その他 出血仮死者に対する蘇生法等のものも含まれたこのように 武士の昔から「殺法と活法」は表裏一体となって進歩発展した。 |
活人剣 | ふと、気が付いたのは柳生宗矩の活人剣である、 柳生新陰流は 『わが剣は殺人剣ならず』『わが剣は活人剣なり』と喝破し、 活人剣は人を生かすために人を殺すというロジックがあって、 人を生かすために振りおろす破邪の剣、それを活人剣という、らしい。 徳川家光はそれをならって徳川230年の安寧の元を築いたということ。 すばらしいではないですか。 ヒューマニズムの矛盾・限界を鋭く超えているとは思いませんか。 ・・・NHKから。 |
暗殺剣 | 一方、活人剣への批判もある。 活人剣は暗殺剣 『活人剣』などは、たわ言、つまり理想主義的美辞麗句に過ぎず、 そんなものはどこにも存在しなかったわけだ。 それは暗殺剣であったという。 『活人剣』の存在は、“言の葉”の上だけの絵空事でしかなかったのだ。 つまり、この陰流は裏家業が穢い仕事人で、殺しまくった、 江戸柳生新陰流は『(もっとも薄汚い)暗殺剣』 |
勝人剣 |
また、武蔵の勝人剣。 歴史上の武蔵は吉川英治の「儒教的修養」を求める武蔵でも、 司馬遼太郎の「傲慢な天才」でもない。 武蔵は将軍家指南・柳生宗矩の「活人剣」思想に抗して、 「勝人剣」を貫くことで江戸思想の外に出ようとしたのである。 時代が閉塞していく中で、 あくまで独自的であろうとした武蔵の反骨精神があった。 |
活と殺の間 | 閑話休題 活と殺の間 『神曲』La Divina Commedia は、13-14世紀イタリアの詩人・政治家、 ダンテ・アリギエーリの代表作である。 これは、地獄篇・煉獄篇・天国篇の三部から成る戯曲である。 天国と地獄の間に、どちらへでも行ける煉獄があるのが面白い。 cf:ボッティチェルリの 地獄の図 c. 1490年 仏教でも、地獄極楽の間に、はっきりはしないが、 幽界があることになっている。 |
碁の死活 | 碁の死活 碁には死活のどちらかで、非情な世界であるが、コウ(劫)を創って、 コウが死活の中間になったり、碁の進行を複雑にして、 一層面白いゲームとしている。 同じコウでも、 絶対コウ、ヨセコウ、本コウ、花見コウ、万年コウなどいろいろあるが。 「三手ヨセコウはコウに非ず」なども面白い。 また隅の2*1辺りに生じるコウは「二段コウ」になることが多い。 特に「二段コウ」は一手の価値と、コウの帰趨の関係が意味深長である。 はてさて、「どうにもコウにもならん」とは碁のコウの話だろうか。 |